福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まります。県域における遺跡としては
会津若松湊の笹山原遺跡群があります。この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されているそうです。
年代は約2万2000年前のAT よりも下から出土していることから、後期旧石器時代前半に属します。
少しくだって約1万5000年前の塩坪遺跡から熱を受けた139個のこぶし大の石がまとまって発見されました。
この時代はまだ土器がなく、焼石は食材を直接加熱するのに使用されたと考えられます。
東北地方最大の前方後方墳・大安場古墳縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入りますが、福島県は大型の古墳が少なくなっています。
東北地方にあって大安場古墳、会津大塚山古墳、亀ヶ森・鎮守森古墳などの大型の古墳が集積します。
古墳時代、畿内に前方後円墳が登場するのとほぼ同時期に会津地方でも前方後円墳が作られ始めており、
すでに大和朝廷の影響下にあったことが伺えます。古墳時代中期以降は、会津地方の古墳造営が減少し、
代わって中通りで盛んに古墳が作られました。中通り地方の前方後方墳は隣接する那須地方で盛んに築造された
前方後方墳の影響を受けたと考えられています。
5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、
福島県域においても各国に国造が成立しました。当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、
蝦夷勢力圏との境界にあたる信夫国などの国には防備の任もありました。また、関東や近畿地方などから、
さかんに開拓のための移民も行われています。その後、国は評と呼び名が代わり、陸奥国に再編されました。
また、大和朝廷の勢力圏も宮城県域、あるいはさらに北に拡大し、信夫評も「北端」ではなくなりました。
701年の大宝律令の施行時には陸奥国となり、評は郡、評司は郡司となりました。
拡大した陸奥国から718年に石城国と石背国が分置されました。
福島県域は石城国または石背国に属することとなり、陸奥国の領域ではなくなりました。
分置後も蝦夷との戦いが続き、東北全体で戦う必要性起こってきたので、724年までには石城国と石背国は再び陸奥国に合併されたそうです。
これらの郡は、その後、人口の増加などにより、さらに再分割されています。例えば信夫郡から伊達郡が分割され、
安積郡からは安達郡などが分割され、会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割されました。
平安時代には会津で恵日寺が強大な勢力を得ましたが、平安時代末期にはほぼ福島県全域が奥州藤原氏の勢力下に入り、
藤原氏一族の信夫佐藤氏が福島盆地を本拠地として、中通りの中部まで、恵日寺後退後の会津、山形県置賜地方まで
支配するまでになった。平安末期、福島県内で他には中通りの石川氏、浜通りの岩城氏がありました。
石川氏は清和源氏の流れで前九年の役に従軍して石川郡に定住しました。岩城氏は桓武平家の氏族で、藤原清衡の養女を
妻に迎えて石城郡に定住したとも石城郡司の子孫とも言われます。
中世においては源頼朝が鎌倉に幕府を開府し東国において自立しますが、頼朝は東北において奥州征伐により奥州藤原氏を滅ぼします。
県域においては信夫佐藤氏が信夫荘に押し込められると、鎌倉による論功行賞で福島県内は伊達氏、
相馬氏、二階堂氏、蘆名氏、畠山氏、結城氏など、多数の関東武士団に細分化されました。南北朝の動乱においては
結城氏の一族である白河結城氏が台頭し、白河結城氏を主力とする南朝方が大いに優勢となりましたが、しばらくすると
相馬氏など北朝方が盛り返し白河結城氏など多くの諸氏は奥州管領や鎌倉公方の支配を受けるようになります。
戦国時代に北関東・東北においては一国以上の領国をもつ戦国大名は少なく中小の地域勢力が分立する傾向をもっていますが、
伊達氏は伊達稙宗が南奥羽で外征や婚姻外交を繰り返し南奥羽のほとんど大名が勢力下に入るが天文の乱を起こし衰退したり、
白河結城氏が衰退し代わって岩城氏が勢力を盛り返すなど、栄枯盛衰はやむことはなく、隣接する常陸国佐竹氏や
越後国上杉氏の影響も受けるようになりますが、最終的には蘆名氏や相馬氏、二本松氏などを圧倒した伊達氏の伊達政宗が
短期間ではあるが、福島県域の浜通りを除く大半を領有することになります。
豊臣秀吉による奥州仕置により伊達政宗が伊達氏の元の本領以外没収され、会津には蒲生氏郷が入ります。
翌年の葛西大崎一揆の戦後処理で伊達政宗が岩出山に移封させられると、蒲生氏郷が福島県中通り以西の
ほとんどを領有しました。しかし子の蒲生秀行は会津から宇都宮に移され、代わって越後の上杉景勝が
会津120万石を得て福島県の中通り以西のほとんどの地域と山形県の置賜地方を領有しました。関ヶ原の戦いによって
上杉景勝は信夫郡伊達郡を除く福島県域の所領を失い、30万石となります。代わって会津には蒲生秀行が再度入封し、
会津藩60万石が成立しますが、2代目の蒲生忠郷が早世し伊予松山藩に移ることになります。次に1627年加藤嘉明が40万石で
会津に入封しますが、これも2代目加藤明成で会津騒動を起こして領地を幕府に返上しました。そして、1643年に松平氏保科正之が
23万石で入封し、この松平氏会津藩が幕末まで続くことになります。一方、信夫郡と伊達郡も1664年に上杉氏米沢藩から
召し上げられ、会津藩以外の大藩はなくなり、会津と相馬氏領の相馬地方を除く県内のほとんどの地域で、
江戸時代を通じて小藩、天領が入り乱れて激しく変遷した。江戸時代に会津若松と日光街道を結んだ重要な
交通路下野街道の宿場大内宿が当時の街並みのまま重要伝統的建造物群保存地区として残され往時を偲ばせます。
江戸時代幕末に置かれた藩及び城郭、交代寄合陣屋としては会津藩、支城の猪苗代城、二本松藩、棚倉藩、
相馬中村藩、三春藩、磐城平藩、福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、水戸藩支藩の守山藩、幕末に幕府直轄地となった白河城、
仙台藩の支城谷地小屋城などがあり、交代寄合の溝口家の横田陣屋、その他に代官陣屋もありました。
明治初期、版籍奉還後の1869年の太政官令により、陸奥国南端である現在の福島県域は陸奥国から分離し、
西側が岩代国、東側が磐城国となりました。岩代国は現在の福島県中通り地方の中北部と会津地方。
磐城国は現在の福島県中通り地方南部と福島県浜通り地方と宮城県南部にほぼ相当します。
1871年7月の廃藩置県で全国に多数の県が生まれた後、同年11月に現在の福島県域は、岩代国の会津地方が若松県、
岩城国、磐城国からなる中通り地方が二本松県、磐城国はほぼそのまま磐前県の3つの県として統合されました。
1876年に福島県、若松県、磐前県が合併して新しい福島県となりました。その際、磐前県北部が宮城県に、
磐前県南部の一部が茨城県に移管され、さらに1886年に東蒲原郡が新潟県へ移管されて、現在の福島県域になりました。
これらの変遷は最後の東蒲原郡移管を除いて、1869年の藩の制度化の後、1871年の廃藩置県から1876年までの間に、
あわただしく行われました。