福島市

2011/04/20

福島市は、東北地方の南部、福島県中通り北部に位置する都市。福島県の県庁所在地であり、中通り北部の中心都市です。 市域は、旧信夫郡全域と周辺の旧伊達郡、旧安達郡の一部村落を加えた範囲に及び、福島盆地の南西側と その外周山岳部を占めます。市内には飯坂温泉をはじめ、高湯温泉や土湯温泉などの温泉が多く、東北地方唯一の JRA福島競馬場が立地します。更に、桃、梨、リンゴ、さくらんぼなどの果樹の栽培が盛んであり、フルーツライン沿いには 果樹園が広がることから、果物王国の異名を持ちます。

都市人口は、いわき市、郡山市に次いで県内3位。全国で人口が県内3位の県庁所在地は福島市のみです。 福島市を中心市とする福島都市圏の人口は約41万人で、郡山都市圏に次いで県内2位。2004年商業統計確定値では、 小売の年間販売額は3,331億円で、郡山市4,211億円、いわき市3,695億円に次いで第3位。特に2002年からの2年で122億円も減少しています。

福島市の名前の由来

古代には福島市地域の代表的な地名は岑越と呼ばれており、現在の信夫山も岑越山と呼ばれていました。 奈良時代の律令制では各道に官僚が馬を乗り継ぐための駅が設置されましたが、東山道の福島周辺の駅名は、南から安達→湯日→岑越→伊達 →篤借、となっています。ただし、岑越は松川以北摺上川以南であり、松川以南は当時でも杉妻であったため、 駅があったのは現在の県庁所在地地域より北寄りの北五老内地域であったと思われる。その後、杉妻大仏の建立、 中世になって杉妻城や大森城の築城があり、次第に政治的な中心であり地域を代表する地名は岑越から杉妻に移ったと考えられます。

現在の福島という地名に関しては、安土桃山時代に信夫郡・伊達郡が蒲生氏郷支配になったとき、 蒲生氏郷または蒲生氏郷の下で福島城主となった木村吉清が、それまでの杉妻を縁起の良さそうな福島と改名したという説が有力です。 なお、この時代、豊臣政権による大幅な改易が相次ぎ、南東北では各地で地名が変えられ、 若松や船岡と同様、現在に残る地名になりました。

福島市の地理

福島市は福島県の北東部に位置しています。県の中心猪苗代湖から北東へ約50km、東京から北へ約260kmの距離。 西側の奥羽山脈と東側の阿武隈高地に挟まれた福島盆地の南西部分とその周辺の山岳・丘陵地域が主な市域です。 市内からは西に吾妻連峰を、南西に安達太良山を仰ぎます。古来より奥州街道と板谷峠経由の米沢街道や茂庭経由の羽州街道との 分岐点であり、交通の要衝として栄えます。現在でも国道13号の起点であり国道4号から分岐します。 鉄道では、福島駅が東北本線と奥羽本線、そして東北新幹線と山形新幹線の分岐点となっています。

西側の奥羽山脈、東側の阿武隈高地を主な縁とし、北流する阿武隈川を中心に、福島盆地を形成しています。 奥羽山脈を源とする摺上川、松川、荒川等がそれぞれ市西部に扇状地をつくりながら東流し、阿武隈川に注ぎます。 かつてその扇状地は桑畑として利用されたが、現在では果樹園に転用されています。盆地の南東部に残丘である信夫山が構え、 福島市のシンボルとして市民に親しまれています。奥羽山脈側には栗子峠や土湯峠のような交通難所が存在します。 市内最高地点は東吾妻山で標高1,974m、市内最低地点は向瀬上で標高約55mです。

郡山市

2011/04/19

郡山市は、東北地方の南部、福島県中通りのほぼ中央に位置する都市である。旧安積郡および田村郡の一部。 中核市に指定されている。市域は、中央分水界となっている奥羽山脈の東西にわたる。市の西部は日本海側である猪苗代湖南岸に及び、 中心部は太平洋側の中通り中部に位置する。市の中心部は、栃木県宇都宮市と宮城県仙台市の中間に位置しており、 東北新幹線・東北本線・東北自動車道・国道4号で繋がれています。また、西の会津若松市や新潟市と、東のいわき市へは、 磐越自動車道や磐越西線・磐越東線および国道49号で移動する事が可能です。そのため、東日本の交通の十字路として拠点化が進み、 経済・内陸工業・流通・交通の要所として、東北地方第2の人口を擁する郡山都市圏を形成しています。 また、中通り南部や会津地方との関係も深く、福島県内最大の経済圏を形成していると見なされています。

かつては犯罪発生率の高さに加えて暴力団の抗争が相次いで発生したことから、「東北のシカゴ」という異名を持っていました。 これに対し、郡山市では昭和30年代から音楽活動によるイメージ改善を目指し、現在では「東北のウィーン」や「音楽都市」という 異名で音楽活動が盛んな街としても知られるようになっています。

福島県の中央に位置している点から、県庁を郡山に移転しようという動きがあります。これは福島県成立当初から 県庁舎の建替え問題の度に運動が行われて来た事でありますが、県庁所在地である福島や、郡山との交通が比較的不便である 浜通り北部の反対が強く、実現には至っていません。歴史的には、明治時代の移転運動の結果、県庁と引き換えに、 当時福島県に一校だけであった旧制中学校を福島から郡山に移転することで和解した経緯もあります。 実際、市内の国道4号には2箇所に「福島県庁を郡山市に」という看板があります。

郡山市の歴史

古代では7世紀の安積郡設置以来、安達・田村両郡が10世紀に分郡されるまで、 現在の二本松市・田村市を含む広大な地域の中心地として機能していたとみられ、中心市街地直下に位置する 清水台・咲田・虎丸遺跡が関係する遺跡として考えられています。 11世紀になると、東部を中心として藤原氏や熊野の荘園が設置され、樹枝状の低地にも開発が進みました。 鎌倉時代には伊東氏の宰領する土地であったことが文献から推測されており、鎌倉時代末期には東部地域が南北朝の争乱地帯でした。

室町時代を迎えると、安積町に笹川御所が設けられたことで、南東北の政治的中心地として文献に当該地域の地名が 頻出するようになります。しかしながら、郡山市域の伊東氏は早くから分家が分立した状態にあり、中世を通じて主体的な権力を 保持する戦国大名に成長するには至りませんでした。そのため、当地の政治状況は中期以降は検段職を有する白河結城氏に属し、 末期になると蘆名氏や伊達氏の影響下にありました。その一方、経済的には、安積町の4号国道に沿った地域で実施された大規模な 発掘調査によって、この地域が流通の拠点として機能していたことが判明しています。調査では古代の街道と中世の街道が検出された他、 多数の建物跡や堀・溝が発見され、出土遺物から12〜16世紀に亘る年代観が与えられています。

明治時代の白眉は、初めての近代国家事業として安積開拓事業が実施されたことです。 これは、猪苗代湖から疏水を開鑿して原野を開発し、失業士族を入植させようという事業でありましたが、 地域経済に大きな効果を招来したのは疏水に伴う水力発電事業の方が大きかった。国内初の長距離送電の実現により、 郡山には信州を始めとする各地の資本により紡績工場が多数進出し、鉄道網の拡充とともに近代化が加速されました。

郡山市の経済

2004年統計において、事業所数4734ヶ所、年間商品販売額1兆4515億円となっており、いずれも福島県内で第1位、 東北地方では宮城県仙台市についで第2位。このため、福島県の商業県都とも呼ばれ、郡山都市圏を形成しています。 中心市街地には十数階建マンションが多く、新たなマンションの建設も相次いでいます。高層建築は郡山駅前の通称 「ビッグアイ (Big-i) 」が、駅前のランドマークとして定着しています。 2005年には、駅前大通りのシンボルロード化や、アーケードの立替工事などが始まり、2006年夏に完成しました。