いわき市は、福島県浜通り南部にある市。中核市に指定されており、福島県内で最大の人口、および面積を持つ。
福島県内及び東北地方で最も工業製造品出荷額が多い工業都市となっています。また、多彩な観光資源があり、
観光客数は県内第1位の年間約1,102万人。東北地方では仙台市に次いで第2位。東北地方内では年間日照時間が最も長く、
1日の平均気温が最も高い都市です。これはいわき沖で寒流と暖流が交わる影響で、年間を通して寒暖の差が少なく
、気候が安定しているためです。また、降雪は山間部を除いてほとんどなく、特に平野部・沿岸部では降らない年もあるようです。
そのため積雪量は東北では最も少ない値となっています。
いわき市の地理
福島県の東端、太平洋に沿った浜通りの南東に位置し、東は太平洋に面し、60kmに渡る海岸線に、
10箇所の海水浴場と小名浜港を初めとする11箇所の港を持ちます。西は阿武隈高地に面し7割が山間部で、
残る3割の平野部に市街地があります。JR常磐線では、トンネル、平野部、海岸線が交互に現れます。
1905年頃から高度経済成長期までは、今のいわき市の大部分に常磐炭田が立地しており、久原房之助の日立鉱山から
常磐炭田に跨がる地域は、鉱工業が繁栄する地区でありました。明治維新以後は水戸側から交通網が順次整備された為、
中通りよりも、浜通りや茨城県北部との繋がりが深くなっています。
高度経済成長期の大規模合併で成立しました。面積は1,231.13km²で、市の大きさとしては2003年3月までは日本一でした。
同年4月1日に静岡市と清水市の合併で、最大面積を持つ市の座を明け渡すこととなりました。
なお、本市は長野県諏訪郡ちの町、山口県阿武郡むつみ村、青森県むつ市についで4例目のひらがな名の自治体です。
「いわき」の漢字表記は「岩城」「磐城」「石城」であるが、律令時代および明治後期以降の郡名が「石城」で、
大名の姓が「岩城」、江戸時代と明治旧国名が「磐城」となっている。しかし、1966年10月に市町村が合併する際に
「磐城市」が合併する地域に含まれていたため、市町村長の政治的妥協でひらがなの「いわき」になりました。
また、福島市から遠方であることに配慮して1979年4月に本市にいわき自動車検査登録事務所がおかれ、
「いわきナンバー」が新設されました。
伊達市は、福島県北部の市。2006年1月1日、伊達郡の伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して誕生しました。
地域名として親しまれている郡名を市名とした。福島県伊達郡の伊達町、保原町、梁川町、霊山町、月舘町が合併しましたが、
市名はあくまで郡名に由来し、旧伊達町が中心となって合併したというわけではありません。市役所本庁舎は旧保原町、
分庁舎は旧梁川町にあります。また、伊達郡の中に昔から伊達という地名があった訳ではありません。東北本線伊達駅は、
もともと伊達郡長岡村にある長岡駅として開業しましたが、信越本線長岡駅との駅名の重複を避けるため、1924年12月に、
郡名に由来して伊達駅と駅名を変更した経緯があります。旧伊達町の町名は、1940年に旧長岡村が町制を施行する際に、
長岡村内にあった東北本線伊達駅から町名をとった経緯があります。
伊達市の地理
面積265.1平方キロメートル。平野部を含むため、福島県内でも比較的経済活動が活発で人口も多い地域です。
福島県内の自治体として、人口は第7位、農業生産額は第3位、製造品出荷額は第6位、商品販売額は第8位、財政規模は第8位となります。
人口、商工業、農業は、福島盆地の平野部である旧伊達町、旧保原町の北部、旧梁川町の西部が中心となっています。
旧伊達町は、合併前、福島県内で最も人口密度の高い自治体でした。一方で旧梁川町東部、旧保原町南部、旧霊山町、
旧月舘町は阿武隈高地の山間部で、人口密度も低く、林業や農業が中心で過疎化も進んでいる。これらの山間部では
インフラ整備も遅れており、携帯電話が使えない、ブロードバンド回線が使えない、水道もない地域が多いようです。
隣接する福島市への通勤通学も多く、福島市の郊外地域、衛星都市としての性格も強い。
福島県北部の中心地域である福島盆地は、西側を福島市、東側を伊達市と伊達郡国見町・桑折町が占め、
文化的、経済的に不可分な状態にあります。
伊達市の歴史/先史時代
伊達市は福島盆地とその周囲を山地を含む地域の北東側を占める。福島盆地が誕生したのは約20万年前の中期更新世で、
その後緩やかに沈降しながら時に隆起し、盆地内に平野部と段丘を形成して現在に至っています。
伊達郡桑折町の平林遺跡では約3万年前の旧石器時代の打製石器が発見されているため、少なくともそのころには人の営みが始まっていました。
伊達市の歴史/古代
古墳時代前期、福島県域ではまず会津地方で畿内とほぼ同時期に前方後円墳などが作られ始めているが、中期となると、
会津地方よりもむしろ中通り地方で多く古墳が作られるようになり、伊達市を含む福島盆地でも数多くの古墳が作られました。
伊達市内には愛宕山古墳群、大泉みずほ古墳群、新山古墳群などがあります。
5世紀末、福島盆地も大和朝廷の支配下にはいり、大和朝廷勢力圏の北限として信夫国造が置かれました。
信夫は福島盆地一帯の名称。信夫近隣では伊具、思、阿尺、染羽、白河に国造がおかれました。
氏姓制度では血縁を表す氏と職務を表す姓が定められたが、信夫国造は久麻直なので、信夫国造の姓が直であったことがわかります。
また、信夫国の部民は、丈部、壬生部、太田部などがいました。また、大和朝廷勢力圏の北限として、蝦夷に対するため、
軍備の任も担っていました。また陸奥国開拓のため、関東や近畿地方からの半ば強制的と思われる大量移民も行われていました。
太田部とは新田開発のための移民団です。
伊達市の歴史/飛鳥・奈良時代~平安時代
701年、律令制が始まると大和朝廷の勢力圏は現在の宮城県域まで北進し、それによって、718年には陸奥国の分国が行われました。
陸奥国のうち、信夫郡、安積郡、岩背郡、白河郡、会津郡の5郡は石背国となりました。同様に菊田郡、石城郡、標葉郡、行方郡、宇太郡、
曰理郡は石城国となり、残る柴田郡、刈田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡等の北部が新しい陸奥国となりました。
ただし、分国された新しい陸奥国では北方防備に十分な経済力を維持できなかったため、724年までにこの3国は再び合併して
陸奥国に戻されました。
伊達市の歴史/鎌倉・室町時代~安土桃山時代
伊達氏は勢力拡大や内紛を経て、本城を梁川城から桑折西山城、米沢城、会津黒川城へと移していきますが、
豊臣秀吉が奥州仕置で伊達政宗を岩出山に転封したことにより、伊達郡は会津に入封した蒲生氏領を経て、
越後から会津に改易された上杉景勝領となった。関ヶ原の戦いの折りには、旧領回復を目指す伊達政宗軍が福島盆地に攻め寄せて
梁川から福島で激しい戦いが繰り広げられましたが、上杉軍は伊達軍を撃退しました。
伊達市の歴史/江戸時代
江戸時代初期の伊達郡は上杉氏米沢藩領であり、米沢藩の福島奉行の支配下となりましたた。120万石から30万石となっても
家臣の多くを抱えたままだったため、米沢藩では深刻な財政難に陥り、新田開発なども積極的に行われました。
伊達郡北部では西根堰の完成により、飛躍的な増産を実現している。その後、1664年の相続問題により、
信夫郡、伊達郡は米沢藩より召し上げられ、米沢藩は15万石、信夫郡と伊達郡は天領となりました。
1679年、本多氏福島藩15万石が成立しますが、本多氏は1682年には転封され、再び天領となります。
続く1683年に松平氏梁川藩3万石が成立します。この梁川藩の成立によって、ながらく続いた信達平野の一括支配は終わりを迎え、
この後明治維新まで、伊達郡、信夫郡とも、村単位で梁川藩領、福島藩領、天領、他藩の飛び地、預かり地などが
めまぐるしく入り乱れます。桑折藩や下手渡藩も置かれました。
伊達市の歴史/明治以降
幕末からの養蚕業による好景気は明治になるまで続きましたが、その後の養蚕業の低迷によって現在、
農業は果樹中心に転向しています。特に桃やりんご、柿の栽培が盛んだ。特に五十沢で大正時代に発明された
あんぽ柿はこの地方の特産物として名高い。